徳島県立城南高等学校
 
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渦の音歴史館


2010/04/28

渦の音歴史館-展示詳細-(武田丑太郎)

| by:広報

武田丑太郎(たけだうしたろう) (1859~1917)
徳島中学校で四十年間教鞭を執った。阿部有清門下の四天王の一人で、
「徳中の数学」と畏敬された。
 
 
数学のウシさんこと武田丑太郎教諭は、五十九歳、持病の心臓性ぜんそくのため死去した。
5年生の運動部員がひつぎを担いで校葬、悲しみの片隅には
「この死のお陰で十人くらいが落第を免れてホッとした生徒のことを覚えている。
  それほど、先生の問題は難しかった。」(藤本蔵之助氏回想)
 

「幼ニシテ和算ヲ父ニ学ヒ長シテ藩校長久館ニ入リ後
         阿部有清ニ就キテ数学ヲ極メ旁ラ英仏独ノ諸語ヲ学習」(武田先生碑)
 
した丑さんは、明治12年以来約40年にわたり、その深く広い学識を背景に、厳しく学問の成果と学問する心を徳中生に教えた。
 
大正7年一月、在京都徳中出身学生主催の「武田先生追想会」が京都帝国大学学生集会所で開かれた。
当時、医科大学3年の小川安太郎氏が伝える会の概要=「渦の音」三十号=を紹介する。
 



寒夜、遺影と燭台と真っ赤な林檎(りんご)の鉢盛をまえに、参会者二十二名が師を偲んで語り合う。
林三高教授(明治二十二年卒)が口火を切る。
中学4年のときドイツ語をやる制度になったが、最初の教師に指導力なく生徒が騒ぎ、武田先生に代わってよくわかり大喜びした、と。
鳥養工科大学助教授(鳥養利三郎)は、東北大学の数学雑誌を手に、師の論文「円理学六竜三陽表起源及用法」にふれてその功績を、
山口工学士は、吉川実夫、林鶴一などの有数の数学者を教え子に持ったことが喜びであったろうことを。
そして多くに共通する言葉は、例えば、

「私の最も感じたるはめどであります。万事めどをつけてやらねばならない、といふのである。
  この点より言えば先生は中学の先生ではなくて哲学者であると思ふ。」(大川定一)

「めどをつける事即ちものの根本を定めると言ふ事」(鈴江元一)

大正十年建立の碑には、数学教育の他に、

「通信教育ノ必要ヲ唱道シ公務ノ余暇屢講演会ヲ開キテ理科思想ノ普及発展ニ務ム」
「特ニ意ヲ陸海軍人ノ養成に注キヌ」
 
と併記されている。碑は校舎移転とともに現校地内に移され、富田浜時代の徳中を偲ぶ唯一のよすがとなっている。

                                                    (「城南の青春」より)
 
 
 
 「圓理学六竜三陽表」
 

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