徳島県立城南高等学校
 
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渦の音歴史館

新しい歴史創造の活力源に
2010/06/15

渦の音歴史館-展示詳細-(深井源治)

| by:広報
 
渦の音歴史館には、深井源治校長に関する資料が多く展示されています。
 
なかでも「校長 深井源治」 (増田清次(昭和19年卒)著 本校職員でもあったには
深井校長の人間性や、その偉業、逸話が詳しく描かれ、
非常に興味深い内容となっています。
 
ここでは、その内容を引用しながら、展示品を掲載していきます。
 
 
 
 

 

 
 
 
             深井源治(1889~1971)
 初代校長岡本斯文から現在に至る校長群像中、その強烈な個性、権力の恣意に屈せぬ硬骨度、
深い学識と卓抜な行動力、それらが結果した在任期間の長さなど、あらゆる点が格段に卓絶しているのが
深井源治校長であることは、衆目の一致するところであろう。
 
 
”穴熊”のいわれ

 由来、名だたる徳中悪童連の中には「必中見立て人」ともいうべき渾名命名人のグループが存在して、
新任教師の着任を手ぐすね引いて待ち構えていたものであった。先生の渾名が「穴熊」と決まったのは、
けだし先生の風貌挙措に穴熊を髣髴とさせるものがあって、穴熊以外の命名はさすがの彼らとしても
想到不可能であったからなのだろう。としか説明のしようがない。

敢えてその経緯を忖度すれば、お世辞にも通りがよいとは言いかねるボソボソした陰気な語り口、
一見した姿勢の悪さ、ますらをぶりにはほど遠いキビキビらしからぬその物腰などに、
時代の主流であった職業軍人やタカ派の教師、生徒の勇ましいえせ行動主義と相容れないものがあって、
彼らの校長に対する暗黙裡の体制派的批判と、その風采に対する揶揄の感情とを7分3分にミックスさせた
この渾名が広く口になじんだのでもあろうか。
さもあらばあれ、この「穴熊」こそやがて徳中の黄金時代を象徴するものとして、
教師、生徒の尊敬を一身に集め、「死して」後世に名を留める「大穴熊」であろうとは、
まことに誰一人として知るよしもなかったのであった。
端的に言って、満州事変以降の学校教育は武が文を、不合理が合理を加速的に圧倒、排除、抹殺するものであったが、
こうした時代精神や社会的風潮に対して可能な極限のレジスタンスを実践しようとしたのが、
深井校長の教育者としての絶対的な信条であった。
                            
敵性教科として強く否定排撃された英語学習には許容最多時間を充当したばかりでなく、
校舎、教科書をはじめ、一切の物的教育手段を焼亡した戦争の最終手段にあっても規定の学習を継続させようとした
卓抜した見識、不撓の教育的執念は、文字通り刮目に値するといえよう。
 

 
校長は高等学校から大学に進めと、ことあるごとに強調した。
自分の経験から、若い内にできるだけ学問をして、正しい判断を下せるようにしておくことが、
長い人生に於いて重要なことである。また、国のお役に立つことであると説いた。
これが、深井校長が高等学校から大学を出なければ人でないように言ったという誤解として残っている。
 
進学指導に全力をあげたといえば、現在の受験の状況を思い浮かべるが、これとはだいぶん違っていた。
自分から追い求めていく学問の尊重であって、受験技術だけのものではなかった。
 
 
まずは全国から優秀な教員を集めた。集めることが、可能であった。
第六十六回卒業記念帖(昭和十三年)より、職員写真(一段目右から4番目が深井)
 
現在の教育委員会の制度とは違って、校長はこれはと思う教師を全国から、従来よりいい給料を提示して、
新学期とは限らずいつでも招くことができた。徳島中学校には出身地が北海道から鹿児島までの先生がいた。
そのころは、教員にも軍隊への招集が何時あるかわからない時代であった。
国立の大学と言えば全国に数校しかない帝国大学の出身者を積極的に集めた。昭和17年度の教員組織では
校長・教諭32名のうち、帝国大学出身者が10名いた。
 
それ以上に教員の実力と研修を重視した。入学は難しくないが、
卒業はそう簡単ではなかった東京物理学校の出身者も望んでいたし、
文検と略称されていた文部省教員検定試験の難問を突破して、中等学校教員の免許状を獲得したのもかなりいた。
当時私たちは、教員の出身学校や、教員免許状のことは、ほとんど知らなかった。だが、今から思えば、
文検の教員は熱意にあふれていたし、帝国大学出身者は教え方は上手とは言えなかったが、
学問の世界に目を向けさせてくれた。
 

学習心得 
 
 生徒には主体性を持つ学習と努力を要求した。全生徒に「学習心得」の小冊子を渡した。
 
校長は、天才といわれる人には二通りあって、生来の才能を持つ人はごく少数であり、
ほとんどの場合は本人の努力の結果であることを、機会あるごとに説いた。
これらの説明のときも、過去の自分の経験には少しも触れなかった。
教員が不意の出張や急病で、授業がかけるときは、時間割の変更をして後の授業を繰り上げ、その組は帰宅させた。
午前中三時間だけで帰ったこともある。
生徒を信じ、またその主体性を発揮して勉強することが、学問の本来の道だとの信念があった。
 
成績の評価は厳しかった。
成績査定の職員会で、各教科の担任がいっせいに成績不良者を黒板に書き出すと、
「それ、落第、これも」
容赦はなかった。甘えや同情を求める行動は許さなかった。むしろ教科担任の方が、
あれを書いたのは厳しすぎたと思うこともあったという。
 
 
 優良な生徒を表彰した賞状
 
国鉄の乗車割引証をもらおうとして、事務室に行った笹森(現、青木)淳治氏は、写真を持ってこいとのことで、出直した。
「そんなんじゃ駄目だ」
いきなり事務員に怒鳴られた。何のことかわからず悄然としていた。たまたま校長がいた。
「君は汽車通でないから分からないよな」
写真を取り上げ寸法にあわせて、はさみで丁寧に切ってくれた。普段自分の考えている校長とは、
全く別人であるような姿に接した。感激した。
数は少なかったが、自分から進んで相談に行った者には、丁寧に応じてくれたということは、
戦後もだいぶんたってから知った。その頃は「あなぐま」につかまらぬことばかりを考えていた。
 
 

 

昭和20年春、「関東軍事件」が起きた。
戦後になって、この事件は「深井の反軍精神の証明」として語り継がれることになる。
 
当時、ソ満国境近くにいた関東軍の満州第七一二部隊が「本土防衛」を名目に「錦第二四三五部隊」と部隊名を変え、
徳島に移ってきた。部隊長は陸軍大佐多田金治。駐屯地に旧徳島中学校が選ばれた。
 
「徳島中学校・城南高校百年史」によると、この時、深井は、「生徒の授業に支障を来さないこと」を条件として、
体育館や生徒控所(講堂)、運動場などを提供した。しかし、部隊の要求が度重なると、
学校施設の貸与は県の権限で、正規の手続きなしに学校長の独断ではできないと拒否。
「部隊長には不愉快であったらしい」と事件に伏線があったことをほのめかしている。
事件とは、部隊のシンボルである軍旗にかかわるトラブル。軍旗の衛兵の宿泊所として職員研究室の一部を貸すよう求めた
多田に対し、深井が「教職員の研修の場を貸すわけにはいかぬ」と突っぱね、
起こった多田が部隊を引き連れて学校近くの潮見寺に移ったと言われている。
 


 
 
昭和二十年七月三日、徳島市内の大半が焼き尽くされた。当時の徳島中学校周辺には人家は少なく、
学校から先には被害がほとんどなかったことから、広い運動場と大きな校舎は標的にされたようだった。

当日の宿直の教諭は爆撃が迫ってくる前に重要書類を確認した。そのうちに深井校長をはじめ先生方も駆けつけた。
もはや消火活動はむりと判断され、かねて準備しておいた十六の雑嚢に分類しておいた学籍簿をそれぞれの先生方に割り当て、
安全に避難するように依頼した。校舎は全焼し、しばらくは休校の処置をとらざるをえなかった。
 
空襲の際に持ち出された重要書類(焼け焦げている)
 
 

防火壁だけを残し、消失した校舎跡に立った校長は、どんな思いであっただろう。
深く心に決するものがあったに違いない。
いわば自分のために作ってくれたような新校舎を引き継いで、九年半、現在とは比べものにならない重圧のもとで、
自分の信念を押し通し、生徒を守ってきた。その成果が現れてきたときに、戦いに利あらず、全校舎を目の前で失った無念さは、
外部からでは想像もつかないことだろう。
各方面の折衝を終えて、9月の新学期には授業の再開にこぎ着けた。
「校舎を焼いた責任をとる」辞表を提出した。誰の意見も寄せ付けなかった。
昭和二十年十月十八日、依願退職が発令された。深井校長夫妻は、静かに徳島を去った。
 

 
晩年の深井源治
 


そのほか、
1990年8月に朝日新聞(徳島版)に8回の連載で掲載された
「アナグマ物語」
の切り抜きなど展示してあります。
 「アナグマ物語」切り抜き(1990年8月朝日新聞(徳島版))
 
 

15:36 | 投票する | 投票数(4)
2010/04/28

渦の音歴史館-展示詳細-(武田丑太郎)

| by:広報

武田丑太郎(たけだうしたろう) (1859~1917)
徳島中学校で四十年間教鞭を執った。阿部有清門下の四天王の一人で、
「徳中の数学」と畏敬された。
 
 
数学のウシさんこと武田丑太郎教諭は、五十九歳、持病の心臓性ぜんそくのため死去した。
5年生の運動部員がひつぎを担いで校葬、悲しみの片隅には
「この死のお陰で十人くらいが落第を免れてホッとした生徒のことを覚えている。
  それほど、先生の問題は難しかった。」(藤本蔵之助氏回想)
 

「幼ニシテ和算ヲ父ニ学ヒ長シテ藩校長久館ニ入リ後
         阿部有清ニ就キテ数学ヲ極メ旁ラ英仏独ノ諸語ヲ学習」(武田先生碑)
 
した丑さんは、明治12年以来約40年にわたり、その深く広い学識を背景に、厳しく学問の成果と学問する心を徳中生に教えた。
 
大正7年一月、在京都徳中出身学生主催の「武田先生追想会」が京都帝国大学学生集会所で開かれた。
当時、医科大学3年の小川安太郎氏が伝える会の概要=「渦の音」三十号=を紹介する。
 



寒夜、遺影と燭台と真っ赤な林檎(りんご)の鉢盛をまえに、参会者二十二名が師を偲んで語り合う。
林三高教授(明治二十二年卒)が口火を切る。
中学4年のときドイツ語をやる制度になったが、最初の教師に指導力なく生徒が騒ぎ、武田先生に代わってよくわかり大喜びした、と。
鳥養工科大学助教授(鳥養利三郎)は、東北大学の数学雑誌を手に、師の論文「円理学六竜三陽表起源及用法」にふれてその功績を、
山口工学士は、吉川実夫、林鶴一などの有数の数学者を教え子に持ったことが喜びであったろうことを。
そして多くに共通する言葉は、例えば、

「私の最も感じたるはめどであります。万事めどをつけてやらねばならない、といふのである。
  この点より言えば先生は中学の先生ではなくて哲学者であると思ふ。」(大川定一)

「めどをつける事即ちものの根本を定めると言ふ事」(鈴江元一)

大正十年建立の碑には、数学教育の他に、

「通信教育ノ必要ヲ唱道シ公務ノ余暇屢講演会ヲ開キテ理科思想ノ普及発展ニ務ム」
「特ニ意ヲ陸海軍人ノ養成に注キヌ」
 
と併記されている。碑は校舎移転とともに現校地内に移され、富田浜時代の徳中を偲ぶ唯一のよすがとなっている。

                                                    (「城南の青春」より)
 
 
 
 「圓理学六竜三陽表」
 

14:15 | 投票する | 投票数(5)
2010/04/28

渦の音歴史館-展示詳細-(阿部有清)

| by:広報

現在の城南高校はSSH事業や応用数理科設立など理系のイメージがありますが、
歴代の漢学者の校長など、文系教育にも重点を置いていました。
とはいえ、理数教育に携わった教師や、その影響を色濃く受けた先輩方の偉業は
すばらしいものがあります。
「理数教育を推進した教師と先輩たち」のコーナーでは、理数教育を推進した四人にスポットを当てています。
阿部有清(あべありきよ)  (1821~1897)
 
教壇の上に突っ立った身長5尺に満たない小さな先生。
難解な数学の問題に頭を痛めている教室の生徒たちをジロリと見渡してから、やおらフトコロより羊羹を取り出す。
「ホレ、見てみろ、これが長方形でアル」
 
 
右手にしたナイフで羊羹をさらに切って見せ、
「ホレ、これが弧三角形でアル。これは鋭角であり、これは鈍角なのでアル。
 ウン、どうじゃ。まだわからんかい。」
 
 
 
唖然としている生徒を尻目に、くだんの先生、今度は羊羹の切れっ端をポイと口の中に放り入れ、ムシャムシャ。
これぞ名にし負う徳中の数学の鬼、阿部有清先生。臨機応変と言おうか、チェンジオブペースの妙と言おうか、
他人は真似のできない先生のユニークな指導方法は徳中名物の一つであった。(「渦の音」1973年版46ページより)
 

当時の数学教授は洋書を使って行うもので、内容的にもレベルが高く、生徒の学習は容易なものではなかった。
生徒思いの熱心な有清先生は、毎時の講義文を作成し、数学の苦手な生徒にも懇切丁寧な指導に当たった。
知識注入的詰め込みを避けた開発的教授法と、ユーモアと機知にあふれた授業は、
やがて数学の魅力にとりつかれた多数の生徒たちを生み出していく。
後年徳中の数学と畏敬された武田丑太郎先生は有清門下の四天王の一人である。
我が国数学教育に名を馳せる林鶴一東北帝大教授
及び、吉川実夫京都帝大教授は、武田先生の弟子であるから、
有清先生の孫弟子にあたる。

奇行・エピソードの多い人で、常に袂のなかに菓子を入れており、
講義の代理(指導文代読)を務めたものに、生徒の前で「オチン」と称して、これを与えた。
また、気が向いたときには「校長が如何に止めてもフリきって」(「徳島毎日新聞」昭和2年6月16日号)
生徒たちを率いて大滝山の焼餅屋荒らしをしたという。
さらには、授業時間先生不在のため職員たちが市内をかけずり回って探してみると、
なんと生徒と一緒に涼しい顔で芝居見物をしていたとも言われている。
中秋の月見の宴でも、

「すみきって またすみきって すみきって
    かくをまるなる 望の夜の月」
 
と詠んでいる。
明治30年、12月20日死去。卒業生たちはその功績をたたえて寺町長善寺に碑を建立した。
その墓碑銘がまた変わっている。
死後もなお、数学者としてのユーモアを忘れない人だったのである。

阿部有清先生 墓面
修算院釋圓理居士
 明治三十年十二月二十日
    前白 阿部有清 行年 七十七
                                                                                            (「城南の青春」より)


08:03 | 投票する | 投票数(3)
2010/04/27

渦の音歴史館-展示詳細-(書)

| by:広報

歴史館に入ってすぐ右手の壁には、漢学者の校長をはじめ、諸氏の書などを展示しています。
 
岡本斯文(おかもとしぶん) (1843~1919) 号は午橋(ごきょう) 
 明治12年、徳島中学校初代校長心得となり、同校の基礎を築いた。
その後、徳島師範学校長並びに徳島高等女学校長を兼務。また、自費を
投じて養淑会を開設し、女性私塾の先駆者となった。
 
 
 
 

 
 岡本監輔(おかもとけんすけ)  (1839~1909) 号は韋庵(いあん)
 
慶応元年、日本人として最初のサハリン北部探検をした。
その後、函館裁判所の権判事、北海道開拓使の判官、
東京帝大文学部雇員などを経て、
明治27年徳島県尋常中学校(現城南高校)校長となった。
坂本龍馬とも語り合った彼は、時の政府の政策、外交を
鋭く論じて生徒の熱い心を揺さぶり、しかしそのために
政治的圧力で退職させられた。
それに抗議し、全校生徒は4日間の同盟休校を実行した。(「城南の青春」より)
 
 
「万人の敵」 史記(司馬遷)から選んだ岡本監輔の心意気が込められている。
 
 
 
 
 
「エトロフ感懐」石碑の拓本
 
 
 
 
新居敦二郎(にいあつじろう) (1849~1917)  号は湘香(しょうこう)
 
明治14年、徳島中学校校長となり、4年間在勤した。
後に札幌農学校(現北海道大学)の漢学講師を勤めるなど
北海道における高等教育の充実のために活躍した。
著作に、「紋鼈函館江差巡回紀行」 (北海道庁長官岩村通俊に随行して
紋鼈(もんべつ)製糖所の開業式に立合い、その後函館より鶉山道を通って江差に至り、
船で小樽に帰着するまでの日記。)などがある。
 
 
 
 
 
 
 
 岡本由喜三郎(おかもとゆきざぶろう) (1870~1955)  号は対南(たいなん)
 
明治29年、徳島中学校の教諭となり、以後昭和5年までの35年間優れた指導と学識を持って
漢文教育にあたった。
「恩師というとやはり”ユキサン”を一番に思い出す。古武士を思わせる短躯痩身、射るような鋭い眼光。
言葉数も少ないのに非常に怖い授業で、いつの間にか漢文に自信がついているのに自分で驚いた。
私も教師の道を歩んできて、”教授法は人にあり”としみじみ思うこの頃である。」(森孝三郎氏 昭和3年卒)
(「城南の青春」より)
 
 
 
 
 
 明治から昭和にかけて本校教育に尽力された諸氏の偉業に思いを馳せるとともに、
貴重な書を鑑賞されてはいかがでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

11:12 | 投票する | 投票数(3)
2010/04/23

渦の音歴史館-展示詳細-(FS)

| by:広報
こちらはFS(ファイヤーストーム)の展示コーナーです。
FSは城南祭の最後に行われる後夜祭のようなものです。
本年度で記念すべき60回を迎えます。
 
 
 
第31回FSの 阿部憲一実行委員長です。
紋付き、袴、高下駄、はちまきという出で立ちです。
 
 
。 
現在の実行委員長が使用している衣装です。
 
現在のFSで使用される大太鼓です。
「城南健児の雄叫び」など寮歌を歌う際にFS実行委員が鳴らします。
 
第34回FSの寮歌集がありました。
FS実行委員手作りの寮歌集で、1年生は寮歌を覚えたものです。
それでは、開いてみましょう。
 
「城南健児の雄叫び」の歌詞です。
「行動開始」の前に全校生徒で歌います。
現在の城南生もこの歌は大好きです。
 
 
「巻頭言」です。
実行委員長が一人で声を張り上げます。静かなグラウンドに響き渡ります。
 
 
そのほか、FSの写真など多く展示しています。
スタイルを変えながらも受け継がれていくFSの様子がわかります。
 
 
 
 

09:55 | 投票する | 投票数(6)
2010/04/20

渦の音歴史館-展示概要

| by:広報

校誌「渦の音」が展示されています。
 
 
旧徳中・城南高校の歴史年表の上には、歴代の校舎の写真が掲示されています。
 
「渦の音」第1号です。明治33年発行という、非常に貴重なものです。
 
「渦の音」第1号から復刊30号までと、城南新聞がデジタル化され、
 
閲覧することができます。
 
理数教育を推進した教師と先輩たちのコーナーでは、
阿部有清、武田丑太郎、林鶴一、鳥飼利三郎各氏の
著書や活躍が展示されています。
 
 
また、現在の城南生の活躍もわかるようになっています。
 
そのほか、明治の学校創立からの貴重な資料が展示されています。
 
 
これが入り口です。
ぜひ、理科棟1階(食堂の向かい)の渦の音歴史館へ
おいでください。 

18:02 | 投票する | 投票数(20)